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教える喜び

実は私は昔、教師になりたいと考えてた時がある。高校の数学教師に憧れていた。私が高校生のとき、数学教師を師と仰いだ。数学がもとより好きだったのもあるが、問題を解く楽しみに加えて、解く過程を美としていたからである。数学の自由性。その自由に憧れていた。

文学にも自由があるのかもしれない。読者がどう捉えるか。筆者の気持ちを考えて読みなさいなどと、国語の教師から言われていたが聞く耳を持たないひねくれた餓鬼だった。その文章をどう読もうと個人の勝手だろ、と。まあ、今思えば、読解力は文章の本質を理解するだけで、著者の感情など、どうでも良いのかもしれないが。

話がそれた。教師になりたいと思ったのは、そんな自由性を生徒に教えたいって気持ちと、教えたことに生徒に感謝されてみたいからだ。

私の幸福の原点は、人に認められ感謝されることにある。
つまり、性癖に結びつけるなら、従者を従えて、常に感謝されることができる、ご主人様という役職が適切である。

ただ、単に感謝されるなら彼女で満足できるのかもしれないが、そこに身分の差を明確にしたご主人様と従者があると、従者は感謝や、尊敬しながらご主人様についていく。そんな人間になってみたいのだ。女性から崇められる存在になりたい。それが私の幸福になる。

SMだったり、主従関係だったり、あまりその世界を知らないような、女に服従する喜びを教える。声を震わせながら感謝される。

目隠しをしながらセックスすることが好きだった女が、私の従者となり様々な事を教えた。主に身分の差を知らしめる事と、私に対する振る舞い方、姿勢等であった。出来ないときは鞭を打ち頭を踏みつけた。従者としての作法を根本から教えてやった。それを通して発情するように躾た。痛みと快楽の飴と鞭である。

ある時、私の従者が俺に会えず、妄想をしたことを私に打ち明けてきた。目隠ししか知らなかった女が。

その妄想を話してみろと言った。


跪いているわたしの髪の毛で上半身持ち上げて、顔を近づけて

「お前は誰のものでどんな身分なのか、わかる?」

って言われるんです。

わたしは、痛いのとゾクゾクで呻くような声を出してて、

ご主人さまは

「どうしようもなく、はしたない雌犬だな、お前は。」

と言われてますますわたしは高ぶって…声にならない。

「まともに話すこともできないんだ?奴隷のくせに 笑」

「ケツ出せ」

と言われてモタモタしてるわたしに、

「早くしろ」と着衣のわたしに鞭が飛んで、声が出ちゃうんです。

「…あーはしたない。お仕置きしてやるよ、ほら」
といってますます楽しそうに鞭を打っていただく妄想をしてました。

早くわたしをご主人さまの思うがままに使ってくださいませ、よろしくお願い致しますご主人さま。

そうやって彼女は報告し、加えて懇願をしてきた。私はこの妄想を聞いたとき、体が震えた。

この妄想に喜びを感じ、興奮させられたのだ、彼女によって。この妄想は彼女が当初性癖にしていた目隠しの要素が何一つ入っていない。私のしたいことが、彼女のされたいことに変わっていく様を実感して喜びを感じていた。

主従というのは、主のしたいことを従者にするだけでなく、主のしたいことを従者のされたいことに変えるような教えるという行為の側面もある。

そして、逆も存在する。従者がされたいことをやってみる事によって主としての視野を広める事にもなる。

意外に従者にご主人様として成長させられるのも悪くない。

その事を悟られるわけにはいかないように必死である。

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Comments

確かに自己の承認欲求を満たしたい、あるいは優越感を得たいというのは、
SMという性的カテゴリーよりもその人間の人格、パーソナリティーで考えたほうがいいんですよね。
で、一旦切り離してから組み合わせていったほうが正確に分析できます。
フロイトの弟子で女性の精神科医にカレン・ホルナイという人がいます。
で、フロイトがサディストは何故エゴイストなのかと考えていると、ホルナイはエゴイストがサディストという隠れ蓑を使っているだけだと答えた。
ちょっとした発想の転換ですね。

自己中心的、わがまま、自分勝手、精神的に未成熟な人間がいたとします。
彼、ないし彼女らは間違いなくエゴイストです。
ですが、そのエゴを通す言い訳や免罪符が欲しいと考えている。
すると、この人たちは自分のエゴイズムを隠すために自分はサディストだからだと他人を傷つけたり、我を通そうとするわけですね。
よくいるじゃないですか、自分はSなんで、とかいって、他人に無茶なことやったりする人たち。
ホルナイという人は百年近く前にその事を見抜いていたわけですね。
これはもう、慧眼でしょうね。

あと、理想についてですが、所で理想と妄想の区別についてゆうやさんは考えたことはおありですか?
理想の理とは、理屈や倫理、道理とかの理で、そこにはちゃんと筋や道義がないとダメらしいですね。
とまあ、偉そうに言いますが、これ、他人から聞いた話なんですけどね。
で、そういう理がなくなると、理想はただの妄想になるという話です。
妄想の妄は筋道がない、デタラメという意味が有る。

泥田坊という妖怪がいます。
あれは人間の妄執を表してるそうです。
人間の指というのは、知恵、慈悲、怒り、強欲、愚痴を表していて、泥田坊という妖怪は知恵、慈悲を失っているから指が三本しかない。
だから残っているのは、怒り、強欲、愚痴しかない。
知恵がないから道理がわからず、人の話に耳も貸さず、慈悲がないから他人に優しくしたり、施せない。
それで常に怒り立ち、強欲だから要求ばかりして、愚痴ばかり吐く。
だからお釈迦様でも救えない。

なるほど、私も泥田坊にだけはなりたくないです。
ただ、この話を聞いたときになるほどとも思いました。
だって、人間というものをよく表している。
泥田坊みたいな人、私も心当たりがある、ゆうやさんもなんとなく、心当たりがあるはずです。

とまあ、益体のない話はここで切り上げるとします。

2017.04.22(Sat) 19:58       まり さん   #-  URL       

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